平和祈念像建設協賛会発行の冊子には、建立のいきさつが次のように記されている。
「長崎は原子爆弾によって言語に絶する人的並びに物的の大損害を蒙り、二七万の人口は一四万とほとんど半減した。一木一草を残さず徹底的に破壊されたあの荒涼たる浦上原頭に敗戦の冷たい風が吹き、冷たい雨が降りそそいでいる光景は、何とも名状し難い印象を生存市民に与えた。
かかる残虐極まる非人道的な仕打ちに長崎市民は何時かこれに報復しようと考えたろうか。当然考えるべきだと思われよう。しかし答えはノーであった。
というのは、原爆を体験し、原爆の恐しさを眼のあたりに見、また九年も経た今日なお原子病が発現して死んで行くのを見聞しては、何時同じ運命が自分の上にも降りかかってくるかも知れないと、不安に戦く被爆者は、「二度と戦争は起こってはならない。これからは原爆の体験のない人々に訴えて、人類を永遠に、原爆の惨禍から救わねばならない」との悲願を立てずにはおられないのである。その結果誰の口からともなく「平和は長崎から!」という言葉が生まれた。
あれから九年その間二十四年五月十日には「長崎国際文化都市建設法」が国会を通過して、長崎は新生日本の標榜する「平和」と「文化」を象徴する特別都市として再出発した。しかし復興が進み漸次生活が安定して来るにつれて、七万数千に上る原爆殉難者の慰霊塔建立の問題が漸く声を大にして要望されるようになった。他方「国際文化都市の標」を山上に建設しては如何等国際文化都市市民としていろいろ積極的な意見が出ていたが、芸術院会員北村西望の「平和祈念像」の構想と情熱を知るに及んで、「本像ならば平和の外に文化をも象徴するので前述三事業を包括することとなるからこれが一番いいじゃないか」と先ず原爆資料保存委員会が賛意を表し次いで国際文化都市建設協議会やロータリー・クラブ等が全会一致その実現に協力することを申し合わせた。昭和二十六年春、一千五百万円の予算(財源は台座等付帯工事費を除き全額寄附金)で四ヵ年継続事業として平和祈念像建設事業予算案を長崎市議会に提出し圧倒的多数をもって可決された。
その後一般物価の騰貴や建設変更(高さ三〇尺を三二尺像に変更)等のため、建設費予算も二十九年度当初予算において三千万円に増額せられると同時に、製作期間も一年延長された。
本事業は長崎市の事業であるが、その財源は一般寄附金にまつという建前になっているので、資金募集のため、民間団体として「平和祈念像建設協賛会」が設立せられた。内地はもとより、遠く南米、北米、ハワイ、タイ、ビルマ等海外からも協力をあおいでおり、殊に福岡市における全国小学校長会議、札幌市における日本教職員組合全国大会、仙台市における全国都市教育長会議、その他地方的教育関係団体や組織において本事業の完遂のため、全国の高等学校、中学校並びに小学校の教職員および生徒、児童の一円拠出運動を行うことを決議して頂き、現にその運動が展開せられておる。更に本年昭和二十九年八月九日の平和祈念日には長崎市で開催された真宗西本願寺派の仏教青年全国大会において全国的に資金カンパを行うことを決議せられたことは関係者のいたく感激しておるところである。」 |